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11.03.24.藤代町(墨田区両国1丁目)両国橋東詰南側 両国橋碑

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写真: 11.03.24.藤代町(墨田区両国1丁目)両国橋東詰南側 両国橋碑

写真: 両国橋東詰南側より(墨田区両国1丁目)隅田川 写真: 藤代町(墨田区両国1丁目)両国橋東詰南側 表忠碑

mixiアルバム「墨田区両国1丁目」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050705856&owner_id=32815602
2012年02月16日 23:47

11.03.24.
●両国橋――
両国橋の創架年は2説あり、万治2(1659)年と寛文元(1661)年である。
千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋で、長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に“両国橋”と呼ばれ、元禄6(1693)年に新大橋が架橋され、正式名称となった。位置は現在よりも下流側であった。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めなかった。
しかし明暦3(1657)年、明暦の大火に際し、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまった。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断する。架橋後は、市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。

両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては明治8(1875)年12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は明治30(1897)年8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落した。死傷者は十数名におよぶ。
明治政府はこれにより、改めて鉄橋への架け替えを決定する。
明治37(1904)年、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせ、震災後に現在の橋に架け替えられた。
この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が、東京都復興記念館に保存されている。

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